盛岡の歴史
都市としての盛岡の街づくりは、 今から400年ほど前に三戸 (現在の青森県三戸町)に居城を構えていた南部氏が、 元和5年(1619)、「不来方」の地に「盛岡城」 を築きあげたことから始まります。

南部氏は、領地のほぼ中央部にあり、 北上川の水運を利用できる交通の要所である、岩手郡仁王郷不来方の地を新たな本拠地に決めた。
天正18年(1590)に日詰高水寺城を「郡山城」(現在の城山公園) に改め居を構えながら、元和5年(1619)「不来方」の地に「盛岡城」を築きあげた。
城から仰ぐ岩手・早池峰・姫神の 「南部三山」に大権現を勧請。鬼門の方角に「宝珠盛岡山永福寺(真言宗)」を、また別に城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺 (臨済宗)」を建立した。
京都にならい領内の寺社を白の南北に集め、 東禅寺(臨済宗)、教浄寺(時宗)、報恩寺(臨済宗)を特に「盛岡五山(北山五山)」と定め、東には八幡宮、天満宮、 住吉神社などの神社を配した。
「五ノ字」 型の複雑に入り組んだ町割りで外敵を防ぎ平均した町の発達を促した。武家屋敷を「小路」、町人街を「町」と表記した盛岡は、 総じて軍事よりも町の安定を求めた設計であった。
南部藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、 城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。 それは開府にあたり招聘した近江商人をはじめとする領外商人進出による影響も大きい。
現在の大阪府から「平野杜氏」 を招き、盛岡の南郊「志和」に清酒醸造の技術を伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」です。
南部重信は「不来方」の名を忌み嫌い、 「盛り上がり栄える岡」という願いを込めた「盛岡」へと改称した。このころの「雑書」(1684)には、藩の総人口30万4366人と書かれている。奇しくも現在の人口と酷似している。 「国統大年譜」によると、南部が単に甲州の村落名である「南部」の名は、文化14年(1817)に改称し、盛岡藩の城下町となった。
盛岡城で南部家による統治が第17代を数えた時、明治維新を迎える。 会津藩や仙台藩とともに最後まで戦ったが抗しきれず、事実上「最後の幕府軍」となって朝敵の汚名を付される。
現在、 盛岡城が残されていないのは盛岡藩への処罰によるためである。ほかにも新政府による締め付けは厳しさを極めた。 戊辰戦争で国替えを命じられたのは、会津藩と盛岡藩のみ、「賊軍の名」となった盛岡は「岩手」と変えられた。
明治以降、 彼らに反骨するべく切磋琢磨した多くの政治家、軍人を輩出する分岐点となる。
最後の盛岡藩主・南部利恭は東京に 「共慣義塾」を開き、藩出身者の文武の養成に努めた。
戊辰戦争のとき官軍が 『白川以北ひと山百文』と放言してが、その「白川以北」初の総理大臣で「一山」の号を持つ原敬。
国連事務次長を務めた後「武士道」 を著して世界に武士の本分を伝え、国内では幾度となく天皇に海外事情を伝えている新渡戸稲造。二人とも「共慣義塾」に学んだ。
天皇が出席している御前会議で終戦を主張した米内光政は、 最後まで戦争を主張した阿南陸軍大臣に「米内を斬れ」とまで言わせた。
大正7年(1918)、原敬が日本初の政党内閣を組閣し、内閣総理大臣に就任。
大正8年(1919)、阿部浩が東京府知事に就任。
大正9年(1920)、新渡戸稲造が国連事務次長に就任。
大正10年(1921)、原敬は東京駅で銃弾に倒れた。
昭和15年(1940)、米内光政が内閣総理大臣に就任。
平成9年(1997)、「城下もりおか400年記念事業」を展開。
平成19年(2007)1月8日、盛岡商業高校が第85回全国高等学校サッカー選手権大会で初優勝。
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