円光寺
円光寺(えんこうじ 浄土宗)は、 内閣総理大臣、海軍大臣をつとめた米内光政の菩提寺として有名です。

鉈屋町、大慈寺町界隈を巡る盛岡城下町線で 「惣門」に降り、明治橋に向かうとまもなく左に見えてきます。
かわいい地蔵さんに迎えられ正面に佇むと、 樹齢約300年の「夫婦カツラ」と「時鐘」が落ちついた雰囲気を作っています。 宮沢賢治の弟清六が下宿したお寺でもあります。

一般にカツラは、 雌雄が別々のもので雌木と雄木の区別があります。ここのカツラは本堂に向かって左が雌木、右が雄木と本当の「夫婦カツラ」 で極めて珍しい。

米内光政は、明治13年(1880)旧盛岡藩士の長男として盛岡市下小路に生まれましたが、 父が早いうちに死亡し一家は困窮を極めた。
苦学の末に旧盛岡中学を経て海軍兵学校に入り、 昭和7年(1932))以後、艦隊司令長官、聯合艦隊司令長官を歴任。

昭和15年(1940)米内を内閣総理大臣に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。 軍部はもとより、世論にも日独伊三国同盟締結の待望論が強まる中、天皇はそれを憂慮し良識派の米内を任命したと 「昭和天皇独白録」の中で述べている。
天皇に呼ばれたとき、 当初米内は組閣を断るつもりだった。
しかし、
『朕、卿に組閣を命ず』
と、いう天皇の声を聞き 「電気に打たれたようになって」断れなくなったという。
当時の軍人としては珍しく米内は、 広い視野を持つ常識人だった。第一次世界大戦後のロシアとポーランドに駐在、ロシア革命に関する論文も書いています。
また、大戦後のドイツの首府ベルリン、 中国での勤務も多く国際的視野を持った数少ない国家指導者の一人でした。
その為、日本の国力や国際情勢を見極めることができ、日独伊三国同盟締結にも反対した。 戦争への流れに抵抗し英米と協調する現実的な政治姿勢を終始貫いた。
こんな米内を陸軍が気に入るはずがなく、 倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求。
米内がこれを拒否すると、 畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。米内はその経過を公表して、 総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにした。独走する陸軍に対して、海軍が冷静、 理性的で開戦にも反対であったことはよく知られている。
天皇の真意は和平にあると感じていたからで、 昭和20年5月末の重臣会議では阿南惟幾陸相と論争し、「1日も早く講和を結ぶべきだ」と言い切った。 必死で戦争終結の道を探った米内に対し、阿南惟幾陸相は8月14日夜「米内を殺せ」との言葉を残し自刃。
戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、 幣原内閣の組閣時には健康不安から固辞していたにもかかわらずGHQの意向で留任している。
昭和23年(1928)第37代総理大臣のほか、林銑十郎・近衛文麿・平沼騏一郎・小磯国昭・ 鈴木貫太郎・東久邇宮稔彦王・幣原喜重郎など7内閣の海軍大臣を務めた米内光政死去。
菩提寺の円光寺の墓にはこう記されている
『救国の偉人
米内光政
ここに眠る』

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